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漸く辿り着いた3LDKのマンションは、しんと静まり返っていた。
ただいま、と云いかけて、今が早朝である事を思い出し、やめる。
…もっとも、仮に同居人が起きていたとしても、そう云ったところで
返事など返って来はしないだろう。
共にこの部屋に住む男は、非常に面倒臭がりだからだ。
人のいる気配はあるので、自室で眠っているのだろう。
普段からふらふらと女のところを渡り歩いていて、滅多に帰ってこない
男であるから、顔を合わせる事の方が珍しいのだ。
お互い仕事の時間が搗ち合う事も殆どないし、今回もきっとまた、
こちらが眠っている間に出掛けて行くだろう。
一緒に住んでいると云っても、互いに干渉する事のない存在だった。
だからなのか、それとも襲い来る睡魔に勝てなかったからか。
なんとなく、部屋に入った時に感じた違和感を気の所為と決め付けて、
早々に自室へと向かったのだった。
昼の手前で目を覚まし、遮光カーテンを開けると、高くまで昇った
太陽の光が降り注いで来た。
小さく伸びをしてから、ラフな服装に着替えて部屋を出ると、
目に飛び込んで来たのは同居人の部屋の扉だった。
普段なら、それが真っ先に目に留まる、などと云う事はない。
何故なら、同居人の部屋は玄関を入って直ぐの場所に位置しており、
その隣にゲストルームとして使用している部屋、そしてこの部屋と、
横並びになっているからだ。
恐らく帰宅時に感じた違和感が、心のどこかで引っ掛かっていたのだろう。
無意識の内に、顔がそちらに向いていた。
そしてやはり無意識の内に、足が違和感を覚えた同居人の部屋へ向かって
勝手に歩き出した。
扉の前で足を止めると、やはり中で人の気配がする。
…まだ眠っているのだろうか。
同居人の出勤時間は疾うに過ぎている筈だが?
少しだけ逡巡した後、軽く2回、扉を叩いた。
が、応えはない。
沈黙しか返ってこない部屋の中からはしかし、確かに何者かがいる気配。
体調不良かなにかで動けないのかもしれないと、割にお節介な質が顔を
出し、再び2回、扉を叩く。
それでもやはり応えはないので、思い切って扉を開けてみた。
「…入るぞ」
一応断りを入れて中を覗き込む。
黒を基調とした生活感のない部屋は、窓に掛かったブラインドがしっかりと光を
遮っているせいで、昼間だというのに暗かった。
ぐるりと部屋の中を見渡すと、角に配置された、大人一人が眠るには少し
大き過ぎるベッドが目に入った。そこはこんもり盛り上がっていて、その小山が
規則正しく上下している事から、明らかに眠っている者がいるという事実を
教えている。そしてその布団の端から、白く細い足が覗いているのが見えた。
…お節介な自分を、呪いたくなった瞬間だ。
そうだ。この男は珍しくこの部屋に戻ってきたと思うと、女を連れ込んで
いたりするのだ。それと知らずに、うっかり最中に踏み込んでしまい、
苦い思いをした事が過去幾度かあった。
しかし、当の男は全く気にしている様子がないのがまた腹立たしい。
まあ、そんな事があったりする訳だから、今回もそうなのだろう。
…と、思いたかったのだが。
先ほど見えたあの足は、そう思い込むには些か小さ過ぎた。
「おい、」
声をかけると、うぅ、と低く唸るような声が聞こえ、もぞりと小山が動いた。
「おい不壊、起きろ」
もう一度声をかけると、痩躯の男がゆっくりと、上半身だけ起こした。
非常に不機嫌そうな表情でこちらを見返す男は、予想通りその身に何も
纏っていない。嫌な事に、男が腕に抱え込んでいるものが見え、それもまた
予想通りのものだったのだ。
「… んだ、ギグかよ…」
眠りを妨げられた不快を顕にして、男が呟く。
何か用か、と云わんばかりの表情をこちらに向けて、更にぼそぼそと呟いた。
「今何時だ…?」
「11時だが…それより、」
「あ?何でお前いんだよ。仕事は」
それはこちらの台詞だと云ってやりたい衝動を抑え、男の腕の中にいるソレを
指差しながら言葉を搾り出した。
「私は他人の趣味をとやかく云うつもりはないがな、不壊。
未成年相手の性行為は犯罪だと云う事を知っているか」
その言葉に、男はうんざりとした表情をこちらに向けると、知ってる、と一言だけ
ぼそりと呟いた。
そう、男の腕の中で、剥き出しの細い背中を丸めて眠っているものは、
どう見ても小学生ほどの子供だったのだ。
白い肌に点々と、朱い痣のようなものが見て取れる。明らかに情事の痕だ。
こちらからは顔までは見えないが、まだ目を覚ます気配はなさそうだ。
「…云っとくが、同意の上での事だぞ」
何故か不貞腐れたような顔で云われ、出るのは溜息ばかりである。
同意があろうがなかろうが、30半ばを過ぎた男が小学生相手に致してしまえば
犯罪なのだ。
こちらの意図を察しているのか、男は不機嫌な顔のまま、ふい、とそっぽを
向いた。そしてこちらが言葉を綴る前に、「責任は取る」と小さな声で云った。
責任を取る。
この男の口からそんな言葉が聞ける日が来ようとは。
一瞬、我が耳を疑った。
今までの経験からすると、同居人が相手にする女と云えば、派手で見栄えの
良い女ばかりだったし、そもそも女との付き合いが長続きした試しがない。
極上の女と付き合っていても、面倒だとか飽きたとか、どうでもいいような
理由ですぐに別れてしまうのだ。
そんな、女を遊びの相手としか見れないような男ではあるが、とにかく異性を
惹きつける魅力はあるらしく、相手にする女は選り取りだ。
こんな子供に手を出す程、女に不自由しているはずがない。
ただの気まぐれで、偶には毛色の違う相手をと、この子供を選んだのか。
責任を取る、と云ったのは、相手が子供だからか?それとも…。
ふと浮かんだあるもうひとつの可能性に、馬鹿な、と頭を振った。
どちらにしても、質の悪い話だ。
と、その時。
昏々と眠り続けている問題のお相手が、何事かをむにゃむにゃと呟きつつ
寝返りを打った。幼い顔が身体ごと、こちら側を向く。
その瞬間の衝撃と驚愕は、恐らく一生忘れられないだろう。
「不壊」
「なんだよ」
「男だ」
「あぁ?」
「男の子だぞ」
「あぁ」
それがどうした、と云うような口調。
目の前の男は、何故こんなに平然としているのかが不思議で堪らない。
性欲を解消する為の女なら掃いて捨てるほどと公言しているはずなのに、
相手はよりによって子供。しかも男。
この男とは不本意ながらも長年の縁になるが、こういう事態は初めてだ。
「そういう」性癖の持ち主ではなかったはずだが。
二の句が告げず呆然としていると、子供が再び何事かを呟き、
寝返りを打った。
その時私は、見てはいけない物を見てしまった。
眠る子供を見下ろして、男は愛おしそうに微笑んだのだ。
重ねて云うようだが、随分と長い付き合いのなかで、こういう事態は初めてだ。
私は今まで、こんな風に笑う男の顔など見た事がない。
…正直な感想を云うと、不気味だ。
いつも不自然に歪んだ笑みしか作らない口元が、今は自然な形で緩んでいる。
…なんて笑顔が似合わないのだろう、この男は。
気色悪い、本気で。
些か思考が外れてしまったが、情事の相手にこんな表情をして見せると云う
事は、少なくとも遊びで手を出した訳ではないのだろう。
とすると、「もうひとつの可能性」の方か。
…しかし、だからと云って。
「同意の上で、と云ったか」
人差し指で顳顬を押さえながら溜息混じりに問うと、男は訝しげな顔をしつつも
頷いた。相手の子供は一体どういうつもりで、この見るからに胡散臭い、
自分の父親と同年代という事も有り得るような男と、こんな関係を持って
しまったのだろうか。
男の言葉を信じるのなら同意の上という事だが、相手は何しろまだ子供だ。
上手く口先で丸め込まれ、訳の分からぬままに同意してしまったという
可能性も捨てきれない。
「責任どうこうはともかく…お前はどういう了見で、そんな子供に
手を出したんだ」
尤もな問いかけに、男は顔を横に向け、がりがりと乱暴に頭を掻いた。
その頬がほんの少しだけ赤く染まって見えるのは、気の所為だと思いたい。
…いや、その…本気で…気色悪いから…。
そんな私の、勘弁してくれと本当なら声にして叫びたい心情など知った事かと
いうように、男はぼそりと呟いたのだ。
出来れば精神衛生上、この男の口からは聞きたくなかった言葉を。
「惚れてンだから…仕方ねぇ、だろ…」
仕方ないで片付く訳がなかろう。
全然仕方なくないから。惚れていようが腫れていようが、犯罪は犯罪だ。
て云うかマジ怖いので頬を染めるな。
ツッコミどころ満載な返答に、そう怒鳴り返さない自分は大人だと思った。
何か文句があるのかと云いた気な、何故か逆ギレしたような視線を投げて
寄越す男を、諦めの混じった目で見返しながら、深く長い溜息をひとつついた。
「本気、なのか」
「冗談でこんな事するかよ」
確かに、今の話が冗談ではないという事は見て取れる。
いつもはシニカルな笑みを浮かべて余裕綽々であるこの男が、今は全く
隙だらけなのだ。
ウタやハルがこの様を見たら、きっと子子孫孫に至るまで笑い種として
語り継がれるだろう。
「…本気なのは分かった、が。しかしそういう行為はあまり感心しないな」
「説教なら聞かねぇぞ」
一応注意を促してはみるが、もう何を云っても無駄な状態まで来ているようだ。
この男が本気なのであれば、周りが何を云っても駄目なのだろう。
普段は滅多に何かに執着する事がない分、一度気に入ったものがあれば
それに対する執着は凄まじいのだ。
そもそも私は、人の恋路を邪魔するような野暮ではない。
相手が幼過ぎる事が気にはかかるが、相思相愛であるのなら、同性同士で
あっても口を出す事はないだろう。そういう偏見はないつもりだし、先にも
云ったが、他人の趣味をとやかく云うつもりもない。
そう思いつつ、何度目かの深い溜息をつく。
「…ならばしっかり、責任とやらをとってやる事だ。途中で放り出すような
真似だけはするなよ」
「当たり前だ、コイツが嫌がったって離してやる気はねぇ」
「…それはそれでどうかと思うが…」
起きた早々、とんだハプニングに遭遇してしまった。
これから出社しなければならないというのに…と現実に立ち返ろうとして、
ふとある事を思い出す。
「不壊、お前仕事は…それに、その子供。今日は平日だろう、学校はどうした」
その問いに、あぁ、と普段の調子を取り戻した声色で男が応えた。
「コイツは今日学校は休みなんだと。それに合わせて、俺が有休取った」
ここのところ仕事詰めだったから偶にはいいだろう、と溜息混じりに呟いて、
そう云えばお前は、と問いを返される。
「私は帰ってきたのが今朝方だったからな。これから出社だ。」
そう云うと、自分で聞いておきながら、聞いているのか聞いていないのか
分からないような、ふーん、と云う曖昧な返答。
こいつはそういう男だ。分かっているが多少腹は立つ。
しかし奴はふと顔を上げると、いい加減出かける準備を始めようと退室しかけた
私に向かって声をかけてきた。
「お前、メシは」
「…?これから作るつもりだが」
私はこの男と違って、食事はなるべく自炊で、規則正しく摂る主義だ。
有り体に云えば、この男は家事音痴であるから、大体において家事全般は
私が手の空いた時にやる事になってしまっているのだが。
私の返答に、男はそうか、と頷いた。
「なら、コイツの分も何か作ってやってくれ。ヤった後は大抵第一声が
『腹減った』だからな」
色気も何もあったもんじゃねぇ、と緩みきった顔で嬉しそうに云う。
ああそうですか、もうどうにでもしてくれ。
半ば自棄になりつつも了承の意を示しながら、ふとある事に気付く。
「…ちょっと待て。今の云い回しだと、お前…今日が初めてじゃないのか?」
私の問いに対し、男は何を今更、と云った顔で平然と応えた。
「あ?今日が初めてなんて一言も云ってねぇし。まぁ、まだ両手で足りる程度
の数ではあるけどな、コイツ抱いたのは」
…もう呆れて声も出なかった。
何か云うべきかとも思ったが、最早云う事すら思い浮かばない。
げんなりと男を見返すと、それまで大人しく眠っていた子供が身動ぎした。
「う…ン…フ、エぇ…?」
まだ変声期前の高い声で、男の名を呼ぶ子供。
覚醒したばかりで視界がはっきりとしないのか、細く小さな手を探るように
差し出した。その小さな手を、男が細く長い指で包み込む。
「起きたかい、ニィちゃん」
そう云った男の声は、常からは想像さえ出来ないほど甘く優しい声色だった。
目の前にいる第三者の事などまるで眼中にない様子で、愛おしくて堪らないと
いった表情で微笑みながら、差し出された小さな手の甲に口付けている。
…もう耐えられない。
その微笑みは怖すぎてトラウマになるからやめてくれ。
自分は相当我慢強い方だと思っていたが、さすがにもうこれ以上この場に
いるのは無理だと判断した。
これ以上ここにいたら、恐らく自我が崩壊する。
拷問にも等しい甘い空気に耐えかねて、私は部屋を後にした。
しっかりと睡眠をとり、疲労回復したはずの身体は一気に疲弊してしまった。
いや、身体と云うよりはメンタル面での活力が、激しく消耗してしまった。
ぼんやりとキッチンに向かいつつ、そう云えばあの子供が好む食事は
何だろうかと律儀にも思いはしたが、私はもう一度あの部屋に引き返して
訊ねるほど神経が太く出来てはいない。
しかしそれでも、一般的に子供が好みそうなメニューで食事を作り始める
自分は結構お人好しなのかもしれない。
今日、この時ほど、自分があの男と腐れ縁故の成り行きで同居している事を、
恨めしいと思った事はなかった。
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