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結局、彼の人が里を訪れたあの日以来。
己は、彼の人と顔を合わせていない。
彼の人の悲しそうに歪む顔を、見るのが怖いのだ。
そうさせているのは間違いなく己だという事実から、愚かにも目を背け続けている。
そうしてこのような夜更けに一人、彼の人の眠る屋敷から離れた場所で己の不甲斐なさを
悔いながら、闇に散りばめられた輝石のように瞬く星々を見上げる事しか出来ないでいるのだ。
あと二日もすれば、彼の人はここを去って行くだろう。
あれだけ心待ちにしていたはずの再会なのに、結局交わした言葉の数は片手の指で足りるほど。
本当はもっと話がしたい。
幼い顔に広がる、あの綺麗な、満面の笑顔を見たい。
くるくると忙しなく表情を変える蜂蜜色の瞳を、間近で見つめたい。
健康的な色に焼けた柔らかそうな肌に 、触れてみたい。
…触れて、みたい?
浮かんだ己の思考に、眉を顰める。
何だろうか、今、一瞬。
身体の奥の、奥の方で、何か熱い塊のようなものがどろりと溶け出すような感覚を覚えた。
その感覚は、頭と、心臓と。丹田の辺りから、湧き上がるように己を支配していく。
じんわりと体内を侵食していく不可解な感覚に軽く眩暈を覚え、傍らに聳える木の幹に身体を
預けて、深く息を吐き出した。
目を閉じて、身体を支配する不可解な熱を払拭するために、深呼吸を繰り返す。
すると不意に、近くの茂みがかさりと揺れた。
音に反応して閉じていた目を開けると同時に、揺れた茂みから、あ、とか細い声が上がる。
その声に、みっともないほどにびくりと身体を震わせてしまった。
思考に没頭するあまり、近付く気配に全く気付かなかったのは己の不徳。
心の中で己に対して舌打ちをしていると、茂みの中に潜んでいたものがゆっくりと立ち上がった。
「あ、の。雷信さん…どっか具合でも…悪いのか?」
控えめな声でかけらられた問いに、咄嗟に反応する事が出来なかった。
「三…志郎、殿…」
辛うじて、彼の人の名前だけを喉の奥から搾り出す。
酷く掠れた己の声に、動揺が在り在りと滲み出ていた。
「あ、えっと、ごめん…なんか、あと…つけるような事しちゃって…」
問いかけに応えなかった事に、咎められたと思ったのだろうか。
彼の人は俯いて、ごめん、と繰り返した。
「あとを…。ひょっとして、私が屋敷を出る時からついていらしたのですか?」
彼の人が突然現れた事と、己をつけてきていたらしい事、双方に動揺しつつ。
震えそうになる声から、その動揺を悟られないようにと、殊更ゆっくりと言葉を紡ぐ。
すると彼の人は、こくりと小さく頷き、更に「ごめんなさい」と消え入りそうな声で呟いた。
「その…ちょっと、目が覚めちゃってさ、少し散歩でもしてこようかな〜…って思ってたら、
雷信さんが出て行くのが見えたから…つい、その…追いかけてきちゃったんだけど…
なんだか考え事してたみたいだったから、声…かけらんなくて、さ。そしたら雷信さん、
ふらふらして木に寄りかかって、辛そうな…顔、してたから…」
所在無さ気に視線を彷徨わせながら、彼の人は云う。
「あ、いえ…その、体調が悪いとか、そう云った事は全く…。三志郎殿に余計な配慮を
させてしまって、申し訳ございません…」
不謹慎にも、彼の人が己の身を案じてくれた事が嬉しかった。
しかし、又しても彼の人に悲しい顔をさせてしまった己に苛立ち、それ以上の言葉を出せない。
彼の人もまた、俯いて黙してしまい、沈黙の帳が下りた。
夜の闇を照らすには心許ない星明りの中で、ほんの少しの距離を置いて向かい合う、
己と彼の人。
沈黙は重く、耳に届くのは、微かな息遣いと虫達の声のみ。
目の前には、彼の人が俯いたまま立っている。
夜着用にとかがりが用意した浴衣に包まれた身体は、真昼の太陽の下で見るそれとは違い、
やけに小さく見えた。
腕を伸ばせば直ぐ届く場所に、彼の人がいる。
先ほど感じた、身体の芯から何かが溶け出すような感覚がまた、じわじわと拡がっていく。
同時に感じる、高揚感。
そして、焦燥感。
これは、何なのだろうか。
嘗て感じた事のない、これらの感覚。
2、3歩ほどこの足を動かせば、触れる事の出来る場所に、彼の人がいる。
目の前で俯く彼の人に。
触れたい。
――…触れたい?
何故だ。
「あの、」
突然。
俯いていた顔を上げ、彼の人が声を上げた。
その声に、意を決したような眼差しに、小さく息を呑む。
「あの、雷信さん。オレ、ずっと…ここに来てからずっと、聞きたい事があったんだ。
…今、聞いてもいいかな?」
この里を訪れてから、己の前でだけ見せていた悲し気な表情は、何処にも見当たらない。
見覚えのある、強い意志を湛えた瞳が、闇の中でもきらきらと輝いて見えた。
「ずっと、考えてたんだ。」
否とも応とも云わない己に構わず、彼の人は話を始めた。
あの力強い眼差しから察するに、否と応えていたとしても、彼の人はこの話をするつもり
だったのだろう。以前と変わらぬ彼の人らしい行動に、緊張が解けていく。
そんな己の状況など知らぬ彼の人は、尚も言葉を続けた。
「オレさ、あんまし頭良くねーから、結局どうしたらいいか分かんなくて。
でも、雷信さんに直接聞くのが怖くて、今までぐちぐち悩んでた」
彼の人の綴る言葉の意味は、己にとっては全く要領を得ないものだった。
己に、何を聞くのが怖いと云うのだろうか。
聞くのが怖かった、と云うのならば、それは己の方であろう。
彼の人に、己の気付かぬ所で不快な思いをさせたのかも知れぬというのに。
その所為で彼の人には似付かわしくない、悲し気な顔までさせていたというのに、
己は彼の人の口から真意を聞くのを恐れ、彼の人と向き合う事から逃げていたのだ。
「けど、それって何か、オレらしくないなって思ったんだ。いつまでもうじうじ悩んでるの
すっげーヤだし、それに、…それにオレ、もうすぐ…帰らなきゃならないから…
その前にちゃんと、雷信さんと話ししたかったんだ」
真っ直ぐに、揺るぎない。
強い、とても強い、意志と眼差し。
まるで呪縛されたかのように、凛と佇む彼の人から目を逸らす事が出来なかった。
なんと綺麗な生き物なのだろう、目の前のこの子供は。
そう思った瞬間、逃げられないのだと悟った。
ああ、もう逃がれる事など出来ない。
逃れ、られない。
…逃れられない?
一体、何から?
「ずっと、聞きたかった。雷信さん、オレ…オレさ、」
一瞬だけ、言葉を詰まらせて。
彼の人は、緩く握っていた小さな手を、ぎゅ、と強く握り締めた。
それは傍目に見ても、相当な力を込めて握られていて。
頭の隅で、そんなに強く握り締めては掌に傷が付いてしまうのではないか、等と
場違いな心配をしてしまった。
そんな己の心情など、彼の人は気付くはずもない。
す、と小さく息を吸って、言葉を紡ぐためにその口を開いた。
「オレ、なんか雷信さんに嫌われるような事、したかな?ほらオレ、あんましひとに
気ぃ使ったりすんの苦手だし、自分で気付かないとこで、何か雷信さんに嫌われる
ような事しちゃったのかなって思って。もしそうだったら、謝らなきゃならないって」
想像だにしなかった彼の人の言葉を聞き、一瞬、頭の中が真っ白になった。
彼の人を、嫌う?
己が?
一体何がどうなって、彼の人はそのような結論に思い至ったのだろうか。
己としては寧ろ、その問いをそっくりそのまま、彼の人に返したいほどだ。
尚も何か云い募ろうとする彼の人を、片手を上げる事で制した。
「ちょ…お待ちください、三志郎殿。あの、一体…何の話をされているのか、
私にはその…分かりかねますが…?」
慌てて云った己の言葉に、彼の人は大きな蜂蜜色の瞳を数回、瞬かせた。
「私が貴方の事を嫌うなどと、そのような事はありえません。何故そのような考えに
思い至ったのか分かりませんが…しかし三志郎殿、それならば私からも貴方に
お尋ねしなければならない事があるのです」
「え、でも…?」
訳が分からないといった風の彼の人に歩み寄り、目線を合わせるために膝を折る。
彼の人は少し驚いたように肩を震わせたが、それでも此方を真っ直ぐ見つめる瞳
は変わらずに力強かった。
「私こそ、今貴方が仰った事をそのままお尋ねしたいのです。私は何か、貴方を
不快にさせるような事をしてしまったのではないでしょうか。貴方は私の前でだけ、
とても悲しそうな顔をなさる。原因が己にあると分かっていながら、私は今まで
それを正そうとせず、謝罪するどころか、貴方を避け続けてきました。ですから
どうか…」
「…え、え?ちょ、ちょっと待ってよ!悲しい顔、って…そりゃあオレ、雷信さんを
怒らせたかもって思って…でも雷信さんは優しいから、オレの事嫌ってても、
そういうの口にしないだろ?悲しい顔してたのは、雷信さんに嫌われたんだって
思ったら…そいう顔になっちゃって…だから、オレ」
「いえ、ですから…私が貴方を嫌うなどという事はございませんと、先ほども申しました。
…私は、己が何か粗相をした所為で、貴方が不愉快な思いをしているのだとばかり…
違うのですか?」
彼の人は慌てたように、違う、と繰り返した。
話が全く噛み合っていない。
お互いがお互いの態度を勘違いしたまま自らを責め続け、これまでの状態を作り上げて
しまっていた…という事だろうか。
「その…三志郎殿は、何故私が貴方の事を嫌っているなどとお思いになったのですか?」
そう問いかけると、彼の人ははっとしたように此方を見上げ、それから太目の眉を八の字に
下げ、困ったように俯いた。
「…だって…雷信さん、オレがここに来た時…遠くで見てるだけで、オレに声かけて
くれなかっただろ?あの時の雷信さん、何か怖い顔してたから…その後も、オレの事
辛そうな顔で見てたし、ひょっとしてオレがここに来たのって、雷信さんにとっては
迷惑だったのかなぁって…オレ、嫌われちゃったのかなって思って…っ」
彼の人の言葉に、瞠目する。
あの時、己がどんな顔をしていたかなど、気にも留めていなかった。
しかし、云われてみれば確かにそう――だったのだろう。
あの時の己の心情を鑑みれば――…
「…三志郎殿。やはり私は、貴方に謝罪しなければなりません。私が至らなかったばかりに、
貴方にそのような思いをさせてしまっていた事も。そして己が起因であろう事を知りながら、
私は逃げるばかりで、更に貴方に辛い思いをさせてしまった事も…」
「雷信…さん?」
彼の人の、握り締められた小さな手に、己の手でそっと触れる。
驚いたように此方を見つめた彼の人の瞳は、不安気に揺れていた。
一瞬、緊張したように力の篭った小さな手は、両手で包み込むと緩やかに力が抜けていく。
「…オレの事…嫌いになったんじゃないの…?」
「何度も申し上げております。私が貴方を嫌いになるはずなどありません。」
「…でも、」
「私は、羨ましかったのです。貴方と別れた一年前の夏から、私はずっと、貴方の事ばかり
考えていました。今回、貴方がこの里を訪れると聞いた時、私はどれほど喜んだ事か。
しかしあれほど逢いたいと願っていた貴方の傍らには、不壊殿が居た。…貴方と不壊殿の
間には、何人たりとも入り込む事の出来ない絆があるのは分かっています。…分かっている
つもりだったのですが…それでも私は、いつも貴方と共に在る事が出来る不壊殿に、
嫉妬していたのです…」
そう、嫉妬していたのだ。
こうして言葉にしてしまった事で漸く、己の気持ちに気付く事が出来た。
彼の人が、如何に己にとって大切な存在であるか。
いや、今までも、彼の人は己の中で特別な存在であるのは気付いていた。
しかしそれは、我々の――妖怪達にとっての恩人であるという、広い意味での事と
思い込んでいたのだ。
…或いは、故意にそう思い込もうとしていたのかもしれない。
己の気持ちが何であるか、気付いてしまった今となっては。
もう、この想いから逃れる事など出来ないのだ。
「分を弁えず浅ましい処をお見せして、申し訳ございません。己こそが、貴方に厭われても
仕方のない事をしていたのです。至らぬ私を赦していただけるとは思っておりませんが、
どうか――…」
「あ、あの、雷信さん!赦すとか赦さないとか…そんなんじゃなくて、えーと…」
跪き、頭を垂れて謝罪する己に、慌てたような口調で彼の人が語りかける。
「あのさ、あの…嫉妬、とかよく分からないけど…とにかく、雷信さんはオレの事、
嫌いになったとか、怒ってるとかじゃないんだよな?」
「はい」
「…そっか。それならいいんだ。嫌われたんじゃないなら、いいんだ」
その言葉を聞き、跪いたままの低い位置から少し上にある彼の人の顔を見上げると、
安心したようにくしゃりと顔を歪めて笑っていた。
「…泣いて…おられるのですか?」
目尻に浮かんでいる水の雫に気付き、親指の腹でそっとそれを拭うと、彼の人は僅かに頬を
赤らめながら頭を掻いた。
「あ、いや…なんか安心したら、涙出てきちゃったよ。はは、変だよな」
照れながら笑う彼の人を見ていると、胸の奥が暖かくなっていく。
涙を拭ったその指を、そのまま丸く柔らかい頬に滑らせると、彼の人は擽ったいと笑って
肩を竦めた。
「…三志郎殿。本当に…申し訳ありませんでした」
「だからもういいって!何か色々、お互いに誤解してたっぽいし、もう謝るのとかは無し!」
そう云いながら彼の人は、頬に触れたままの己の手を、小さな両手でぎゅ、と握った。
瞠目する己ににっこりと笑いかけると、「立って」と視線で促して。
「家に戻ろ、雷信さん。安心したら今度は何か急に眠くなっちゃったよ」
早く、と急かしながら、彼の人は歩き出す。
屋敷へと続く夜道を、手を繋いで、二人並んで歩いた。
月の無い暗い道中、お互いに何も語る事は無かったが、その沈黙は今までとは違って
重いものではなく、寧ろ静かに二人で歩く時間は心地良かった。
彼の人を部屋まで送り届け、己も自室へ下がると、数時間前にこの部屋を出る時とは
打って変わって、晴れ晴れとした気分になっている事が妙に可笑しかった。
床に着く前に、もし朝目覚めた時に、今宵の事は全て夢だった…などという事になっては
いないだろうかと多少不安になったが、それでもほんの数分前まで握っていた彼の人の
小さな手の温もりを、己の手はしっかりと覚えていて、あの出来事が夢や幻ではないと
信じさせてくれた。
その日は久方振りにぐっすりと眠る事が出来た。
今まで彼の人の事を想い煩い、碌に眠れなかったために翌朝はうっかり寝過ごしてしまい、
中々姿を現さない己を心配したかがりが起こしに来たほどだった。
それからの己は、今まで無駄にしてしまった時間を取り戻すかのように、彼の人と共に
行動した。残された時間は残り僅かであったが、それでも、少しでも長く、彼の人と
過せるように。
彼の人は、そんな己を笑って受け入れてくれていた。
己と多くの事を話す事が出来て嬉しいと、笑ってくれた。
そうして、彼の人が帰る日がやってきた。
結界の外へ続く出口の前で、里の妖達は彼の人を囲んで、様々に別れを惜しんでいる。
それを遠巻きに眺めていると、黒衣の男が音も無く近付いてきた。
「お前は別れを云わないのかい?」
そう云って彼の人を見、それから此方へ視線を向ける。
それに対して曖昧な笑みを返すと、男は口角を吊り上げ、歪んだ形の笑みを作った。
その笑みはいつもと変わらぬものだったが、視線は何か意図を含んでいるように見える。
男の云わんとする事が読めずに眉を顰めると、歪んだ口元から、く、と小さな声が漏れた。
「もう少し拗れてくれた方が、俺としては有難かったんだがなぁ?」
質の悪い、としか云いようのない笑みと共に、そんな事を云う。
一瞬何を云われているのか理解できなかったが、彼の人へと視線を戻した男の横顔を
見て、漸くその意味を理解した。
この男は、最初から知っていたのだ。
彼の人に対する己の気持ちも、己と彼の人がお互いの思い込みですれ違っていた事も。
知っていて、放っておいた。
この男の性格を鑑みれば、それは当然の事のように思えるが、しかし。
「…それは、私の事を…恋敵として認めてくださった、と…受け取ってよろしいのですか?」
静かに、だが強い口調で。
男に向かってそう云い放つと、彼の人に向けていた紅い瞳が此方を向いた。
その紅がすっと細まり、酷く攻撃的な色になる。
「…ま、どう受け取ろうが、お前さんの勝手だがね」
そう云い残し、彼の人の方へ向かって歩き出した。
妖達に囲まれていた彼の人がそれに気付き、男に向かって早く来いよ、と声をかけている。
それからこちらに視線を向けて。
「またな、雷信さん!!」
大きく手を振りながら、あの綺麗な笑顔で、そう云った。
そうしてまた、一年前と同じように、光の中へと還っていく。
あの時と違うのは、己が彼の人を想う気持ちの形に、はっきりと気付いた事だろう。
もう、腕を伸ばして引き止めたいとは思わない。
彼の人と、常に共に在るあの男に比べれば、己は不利な立場ではあるが。
己が彼の人を想う気持ちは強く、揺るがない。
例え彼の人が、己を選んでくれなくとも。
この想いは消える事無く、この胸に在り続けるだろう。
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