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事の起こりは半日前に遡る。
学校も冬休みに入り、三志郎は年末から正月にかけて鎌鼬兄妹の元へ
遊びに来ていた。
数ヶ月前に訪れた時は、活き活きとした緑色に覆われて、そこに存在する
あらゆる生ある者たちがその生命の謳歌を響き渡らせていたものだが。
今はその世界が深い雪に閉ざされて、静寂の眠りを湛えていた。
三志郎が生まれ育った島は温暖な気候な為、これほどの雪景色は見た事がない。
招かれた屋敷の庭で、雪の上を大はしゃぎで駆け回る子供の姿は、
まるで子犬のようだった。
「おい、ニィちゃん。あんまり餓鬼っぽい事ばっかやってんじゃねぇぞ」
ごろごろと楽しそうに雪の上を転がっている姿を眺め、呆れたように不壊が声をかけると、
三志郎は男の暴言には慣れているのか、特に気にする様子はなく男を見返した。
「フエ、フエ!だってスゲェじゃんこんな雪…って、おまえどっか出かけんの?」
「あぁ、面倒臭ぇ事にジジィから呼び出し食らってな」
「妖怪城に行くのか?じゃあオレも」
「あー…ニィちゃんが一緒じゃあ、一鬼や一角が五月蝿くて中々戻って来れねぇから
一人で行く。俺が帰ってくるまでイイコにしてるんだぜ、ニィちゃん?」
意地悪く口角を吊り上げてそう云うと、ひらひらと手を振りながらくるりと背を向ける。
そして次の瞬間には、その黒い姿が霧のように掻き消えた。
「ちぇ、なーにが『イイコにしてるんだぜ』だよーっ」
口調は不機嫌であるが、表情は楽しそうに笑ったまま。
尚も雪の上でばたばたとはしゃぐ子供に、次いで現れたかがりが声をかけた。
「三志郎様、あまり雪の上を転がれては、お体を冷やします」
先ほど消えた男とは対照的に配慮の言葉をかけるかがりに、三志郎は嬉しそうに
飛び起きて「大丈夫」と返事をした。
「オレさ、こんなにいっぱいの雪、見た事なくてさ!すっげぇよなー!!白くて、
キレイで、冷たくて…って、あ!?あれウサギかッ!?」
「あ、三志郎様!?」
庭先にひょっこりと姿を現した野うさぎに、三志郎の興味が引かれる。
大きな声に驚いた野うさぎは、そのまま雪の中を走り去ったが、最早何もかもが
楽しい事に思えてしまう三志郎は、逃げるうさぎの後を追った。
慌てて名を呼ぶかがりに向かい、
「ちょっと追いかけるだけ!すぐ戻ってくるよ!」
そう云って、屋敷を後にした。
…そう、すぐに戻るつもりだったのだ。
しかし気付けばいつの間にか、里の外れの山裾まで来てしまっていた。
更に気付けば、追っていたはずの野うさぎの姿を見失っていた。
「あ、あれ?こんなとこまで来ちゃったのか…やべ、帰らなきゃ…」
屋敷で遊んでいた時には止んでいた雪が、いつの間にか降り始めている。
視界の悪い白の世界で、今来た道を戻ろうと振り返ると。
「…オレ、どっちから来たんだっけ…?」
辺りに見えるのは、疎らに生えている杉の木と、一面の白。
夢中でうさぎを追いかけて来た為、途中で帰路の目印となるようなものも
見つけてはいなかった。
方向が、全く分からない。
自らが掻き分けながら進んだ雪道の跡も、降りの激しくなった新雪に消されていく。
「え…と、こっち…か、な」
ざかざかと雪を掻き分け、適当な方角に進む。
5分ほど歩き続け、景色がより一層寂しくなっていく事に気付き、慌てて踵を返す。
しかしまたしても、方向が分からなくなってしまった。
「…あぅ…ひょっとして、オレ…遭難してる…?」
行けども行けども白一色。
目指す印もなく、闇雲に動けば余計に迷ってしまう。
すぐに戻るつもりだったので、防寒も充分ではない状態。
先ほどは動き回っていたので寒さも然程気にはならなかったが、今は静かに
振り続ける雪が、三志郎の体温を確実に奪っていった。
「う…寒ぃ…」
ぶるりと身震いして、これからどうすべきかを考えた。
動けば更に迷うかもしれない。
しかしじっとしていては凍えてしまう。
「どうすりゃいいんだよ〜…」
悴んできた指先に息をかけ、手を擦りながら。
どうしたものかと再度辺りを見渡すが、当然打開策など落ちてはいなかった。
「…。おぉ〜いぃ!!誰かいないか〜!!」
腹の底から搾り出した大きな声で、叫んでみる。
「・・・・・・・・・。」
しかしそれに応えるものはない。
三志郎の声は白い世界に吸い込まれて消えていった。
「あぁ〜…困ったなぁ…」
どうしよう、どうしようと呟きながら、同じ場所をぐるぐると回りだす。
少しでも動いていないと、身体が凍り付いてしまいそうだった。
しかし、本人の感覚では同じ場所をぐるぐる回っていたつもりだったが、
その位置はほんの少しずつズレてきていた。
それに気付かず、三志郎はぐるぐると回り続け―――
「…っ、わあ!?」
がくり、と足元の感覚が喪失する。
そして小さな身体を襲う浮遊感。
―――落ちる。
バランスを崩した三志郎の腕は咄嗟に宙を掻いたが、地球の引力に
逆らう事は出来なかった。
声を出す暇もなく、更に白い世界へと背中からダイブする。
「―――――――ッッ!!!」
落下時間はごく短い間。
三志郎の軽い身体は、ボス、という鈍い音を立てて白の海に飲み込まれた。
そこに崖があった事に気付かなかったのは、真っ白な視界と遭難したという
心の動揺の所為だろう。
しかし崖といっても3m程度の然程高い距離でもなかった事と、降り積もった
雪がクッション代わりになった事もあり、全く怪我を負わずに済んだ。
落下したショックに、雪に埋もれたまま暫く放心していた三志郎だったが、
のろのろと身体を起こし、自分が数分前まで立っていた場所を見上げた。
高い距離ではないと云っても、当然三志郎がよじ登れるほど低くはない。
おまけにこの雪だ。この場所から、崖の上まで戻るのは無理な事だろう。
「…どっか…登れるトコ、ねぇかな…」
とりあえず、上へ戻る道を探さなければ。
そう考えた三志郎は、自力で登れそうな場所を探し求めて、崖伝いに歩き始めた。
そうして結局、完全に遭難してしまったのだ。
慣れない雪の上を歩き続けて疲労した足は、最早歩く事を拒否するように重い。
たった独り、只管に白い世界に置き去りにされたかのような感覚は、常に前向きで
あるはずの三志郎の心を蝕んでいく。
あまりの疲労と心細さに、思わず涙腺が緩んでしまった。
「うぅ〜…誰か…助けて…」
色も音もなく、心まで凍るような極寒の世界は、正常な感覚を狂わせる。
すっかり心が萎えてしまった三志郎は、へたりと雪の上に座り込んだ。
こんな状況に陥ってしまったのは、自身の責である事は重々承知している。
本来なら自力で乗り切るべきであるが、心身ともに余裕のない三志郎は、
誰かが自分を助けに来てくれる事を必死で祈った。
誰か、誰か助けて。
オレを助けて、
助けに来て――
そう祈って、真っ先に三志郎の心に浮かんだのは。
優しく微笑む、人の姿をした妖。
「…雷、信…さん…」
声にしてその名を呼べば、三志郎の心が揺れた。
「雷信さん」
ゆれる。
「雷信さん…ッ」
ゆらゆらと、揺れる。
「雷信さん…雷信さんッ…!」
名を呼ぶ毎に、助けに来て欲しいと祈る気持ちが、ただそのひとに会いたいと
願う気持ちに変わっていく。
呼んだところで、このような場所に現れるはずもない事は分かっている。
しかし今の三志郎は、その名を呼ばずにはいられなかった。
「雷信さん、雷信さん…雷信さ」
「三志郎殿!!」
遠くから自分の名前を呼ぶ声に、びくりと身体を震わせる。
声は後ろから聞こえてきて、しかし三志郎はその呼び声に振り向く事が出来なかった。
「三志郎殿!」
もう一度、先ほどよりも近い場所から名を呼ぶ声。
雪を掻き分けて自分の方へ近付いて来る音と、自分の名を呼ぶ声。
「三志郎殿!」
ゆれる。
「三志郎殿、ご無事ですか!?」
心が揺れる。
振り向く事も、立ち上がる事も出来ずにいると、そのひとは荒い息を吐きながら、
とうとう自分の真後ろまでやってきた。
「三志郎殿ッ…」
憔悴したかのように、掠れた声。
雪を踏む音と、衣擦れの音と、後ろに立つひとの呼吸の音。
そして、
背中に感じる温もりと、
目の前で交差された逞しい腕と、
「…よかった…お探ししました…三志郎殿…」
耳元で聞こえる、安堵の色を含んだ声。
「お怪我はございませんか…?ああ、こんなに身体が冷えて…」
後ろから回された、小さな身体を抱き締める腕に、ぎゅっと力が篭る。
そのひとの腕が、声が、体温が。
酷く三志郎を安心させた。
「雷信さん…」
「はい、」
「雷信さん」
「…はい」
「らい、し…さ…」
名を呼ぶ声が震えて、嗚咽に変わる。
雷信は慌てて腕の力を緩め、どこか怪我でも負ったのかと訊ねた。
三志郎は首を横に振り、漸く雷信の方へ身体を向けて、涙でぐしゃぐしゃになった
顔を上げた。
「ごめんなさい」
謝る三志郎の頬に触れ、眦の涙を指で掬う。
「ごめん…な、さ…」
尚も謝罪の言葉を口にする三志郎に、雷信は優しく微笑んで雪で濡れてしまった
黒髪を撫でた。
「本当に、貴方が無事でよかった」
そう云って、そっと小さな身体を抱き寄せる。
一瞬だけ、三志郎は身体を強張らせたが、すぐに力を抜いて、雷信の広い胸に
身体を預けた。
「…ありがとう」
小さな声で、今度は礼を述べて。
「見つけてくれて…ありがとう」
嬉しかったと付け加えれば、抱き寄せる腕に再び力が篭った。
雷信に会えた事で気が緩んでしまった三志郎は、足に力が入らず、自力で歩ける
状態ではなかった。
私が屋敷までお連れします、と雷信が横抱き(所謂お姫様抱っこ)にしようとしたので、
三志郎は慌てて辞退した。
何故か残念そうな顔をした雷信は、それではと背中を差し出したので、気恥ずかしさを
感じながらも三志郎は前案よりはいいか、と広い背中にその身を預けた。
雷信に背負われて屋敷へ戻るまでの道のりで、三志郎は自分の中に生まれた
不思議な感覚に戸惑っていた。
あの時。
真っ白な世界の中で、助けを祈ったあの時に。
頭に浮かんだのは、雷信の姿だった。
その瞬間から、三志郎は雷信の事以外、考えられなくなってしまったのだ。
只管に名前を呼ぶ事しか出来なくなった。
会いたいと、
心の底から会いたいと、そのひとを求めて呼ぶ声は、まるで悲鳴のようだった。
心臓が、鷲掴みされたかのように、ぎゅう、と痛んだ。
自分の叫びに応えるように、雷信が三志郎の名を呼んでくれた時は、頭の中で
何かが弾け飛んだような感覚に襲われて、動く事が出来なかった。
酷く激しく、心が揺れた。
呼吸が止まってしまうかと思うほどに。
こんな感覚は、今まで知らなかった。
この胸の中に生まれた感覚がどういうものなのか、三志郎には分からない。
もやもやと胸の奥に蟠っているそれは、暖かくて、擽ったくて。
そしてほんの少しだけ、苦しい。
何となくではあるが、これは自分だけでは到底理解できない代物であるような気がする。
屋敷に戻ったら、かがりさんやイズナに、これが一体何であるかを訊ねてみよう。
フエに訊ねるのは、面倒臭いとか云われて適当にあしらわれそうなので、やめておこう。
雷信さんにも…内緒にしておこう。これが何なのかはっきりと分かるまでは、云わない方が
いいような気がする。
そんな事を考えていると、緊張が解けた身体に睡魔が襲ってきた。
雷信が雪の上を歩く事で起こる振動が、背負われた三志郎に、心地良く伝わってくる。
背中から伝わる雷信の体温も心地良く、三志郎を眠りの淵へと誘う。
今は、何も考えなくてもいい、か…な。
雷信に身を預けて安心しきった三志郎は、その背中で小さな寝息を立て始めた。
それを聞いた雷信は、幸せそうに微笑んで。
己の背で眠る愛しい人が風邪を引いてしまわないようにと、屋敷へ向かう足を速めた。
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